父との会話
人生の最後の日までをどうすれば満ち足りて生きていけるかを全体から見る視点が欠けているから、私たちは自分の運命を医学やテクノロジー、見知らぬ他人が命じるまま、コントロールするがままにしている。
Atul Gawande『BEING MORTAL』
(アトゥール・ガワンデ 邦題『死すべき定め』)
ゴールデンウィーク某日。
夜、父とともに酒を飲みながら、テレビを見ながら、雑談しながら――。
「――んで、肋骨の調子はいいの?」
父「うん、別にもう痛みはない。車の運転もできるようになったしな」
昨年末、父はふとした拍子に転び、肋骨を3本折っていた。父は現在67歳。農業界では平均年齢レベルだが、世の中的には「高齢者」の部類である。
「気を付けてくれよ。おふくろの負担がそのまま増えるんだから。車の運転も気を付けてよ?最近、テレビとかでも高齢者の運転が危険だって、よく話題になるし」
父「うーんそうだなあ。高齢者マークは70歳からだけど、俺ももう67歳だからなあ……」
「うんまあ、まだ若いから大丈夫だと思うけど……」
父「まあ、なあ……。最近、車に乗ることも減ってきたなあ(苦笑)」
「いやあ……そうなの?」
父「うん。まあ、最近の移動範囲も狭いからなあ」
冗談のつもりだったが、父の反応が想像していたよりも暗いのが気になった。私は話題を変えた。
「ー―そういや、最近走ったりしてんの?」
父「ーーいや、だいぶ走ってないよ。最近、足が痛いんだ。でも、お前も去年に大阪マラソンに出て、フル走ったんだろ?すごいよなあ。たいしたもんだ」
「うん。まあ、オヤジの影響が大きいと思うよ」
父「ははは。そうかねえ」
私の父は、昔から運動音痴だったようだ(これは私にもしっかり遺伝している)。しかし、ちょうど40歳ごろに自分の体が気になり始めたらしく、気軽な気持ちでランニングを始めた。元々ハマりやすい性格のようで(これも遺伝済み)、そこからフルマラソンを何十回と参加し、マラソン目的でホノルルにもいくようになった。
私の幼少期には、そのマラソン練習につき合わされて明け方に走ったり、親子ペアマラソン等にも参加したりしていた。走り終わった後のポカリスエットは何よりもおいしかったことを、今も忘れない。それに、確証はないが、この時の経験が今の私のマラソン趣味に影響を与えていると思っている。
さて、そんなマラソン好きの父だが、私が就職して以降、すっかり走る姿を見ることはなくなっていた。
「親父はもう走らんの?」
父「――まあね。本当に、足も痛くなってきたし。もう年だからね。40代に頑張りすぎたツケが今に来ているよ」
「いやいや、60代でも走っている人はいっぱいいるでしょ。70代でも関係なくフルマラソンでている人もいるし。国内だと83歳の人がフルマラソン完走最高齢らしいよ。親父なんてまだ若い方でしょ」
父「いやあ、もう無理だ、そんなの(笑)」
「大丈夫でしょ?それに今はシューズもウエアもサポートグッズも昔とは比にならないくらい出てるから、親父もびっくりすると思うぜ」
父「あ、そうなの?でも、無理だな(笑)」
「……まったく。せっかく、去年マラソン用の時計を誕生日プレゼントであげたのに。フルとは言わずにハーフでも10㎞でも――」
父「でも、今だって母さんと散歩してるよ。それくらいで十分なんだって。時計は散歩のときに使わせてもらってるよ」
「ふーん……あ、チャンネル変えていい?」
父「うん、好きなの観な」
「やっぱり実家に帰ったらローカル番組が観たいんだよね」
父「あ、そう。……ああ、なんだか眠くなってきた。もう21時か、いつもなら寝ているところだ」
「はや!(笑)おじいちゃんかよ」
父「もう、おじいちゃんだよ。お前も早く孫を見せてくれ」
……こんな会話をしつつ、私は、マラソンに対する父の態度が腑に落ちずにいた。
私は父との会話を通じ、父を
年齢を言い訳にチャレンジする気持ちを失った男
と解釈していた。同時に、
気持ち次第ではいくらでもフルマラソンのチャレンジができるはず
と思った。その方が、結果として心身ともに充実した老後を過ごせると思ったし、いずれ訪れる死を少しでも長引かせることができると思っていた。
最近、いずれ必ず訪れるであろう
親の死
意識することが増えた。それは、父が定年を過ぎたこと、年始に滑って骨折したこと、人間ドックであまり喜ばしい結果が出ていないことなどがあったからだ。もちろん、直接、両親にこんな話をするわけではない。
……ただ、父と何気なくテレビを見ていても、内容が「突然訪れる可能性がある危険な病気」を面白おかしく取り上げるような番組になったりしたら、私はすぐにチャンネルを切り替えるようになった。こんな番組が増えたなあと思うのは、番組数が増えたのか、私がそういった番組が気になるようになっただけなのか?……どうでもいいが、そういった番組が気になっても、親と一緒に観たいとは思わないのはなぜだろう?
――
土曜日の朝、飛行機で大阪に戻った。
飛行機の中で、ある本を読む。そして、涙があふれる。
内容紹介
「豊かに死ぬ」ために必要なことを、私たちはこんなにも知らない
今日、医学は人類史上かつてないほど人の命を救えるようになった。しかし同時に、
寿命が大きく延びたことにより、人はがんなどの重篤な病いと闘う機会が増えた。
老人ホームやホスピスなど家族以外の人々も終末期に関わるようになり、
死との向き合い方そのものが変わってしまったのである。
この「新しい終末期」において、医師やまわりの人々は死にゆく人に何ができるのだろうか?
圧倒的な取材力と構成力で読む者を引き込んでゆく、迫真の人間ドラマ。
現役外科医にして「ニューヨーカー」誌のライターでもある著者ガワンデが、
圧倒的な取材力と構成力で読む者を引き込んでゆく医療ノンフィクション。
【英語版原書への書評より】
とても感動的で、もしもの時に大切になる本だ――死ぬことと医療の限界についてだけでなく、
最期まで自律と尊厳、そして喜びとともに生きることを教えてくれる。
――カトリーヌ・ブー(ピュリツァー賞受賞ジャーナリスト)
われわれは老化、衰弱と死を医療の対象として、まるで臨床的問題のひとつであるかのように
扱ってきた。しかし、人々が老いていくときに必要なのは、医療だけでなく人生――意味のある
人生、そのときできうるかぎりの豊かで満ち足りた人生――なのだ。『死すべき定め』は鋭く、
感動的なだけではない。読者がもっともすばらしい医療ライター、アトゥール・ガワンデに期待したとおり、
われわれの時代に必須の洞察に満ちた本だ。
――オリヴァー・サックス(『レナードの朝』著者)
アメリカの医療は生きるために用意されているのであり、死のためにあるのではない
ということを『死すべき定め』は思い出させてくれる。これは、アトゥール・ガワンデの
もっとも力強い――そして、もっとも感動的な――本だ。
――マルコム・グラッドウェル(「ニューヨーカー」誌コラムニスト)
この本を手にしたのは、3月頃のこと。上に述べたように、昨年末から漠然と親の死というものを考えるようになった。ある日、関係しそうな本をなんとなく探していた時に、偶然に出会った。思い立ったら吉日と思い、本を購入していた……のだが、なかなかじっくり読む機会に恵まれずに、ツンドク状態となっていた。
だが、GW中に実家に帰ったこともあり、今一度親の死について考えてみようと思い、かばんに入れて帰省した。実家にいるときは結局読まなかったが。
この本では、死を目前にした人を扱っている。それは、重病を患った人だけでなく、「老衰」による必然の死を迎えた人も含んでいる。
筆者は、「死すべき定め」にある人に対し、様々なエピソード(時には身近な知人について、時には自身の親との経験について語りながら)や、学術的な見解を踏まえながら、我々はどのような過ちを犯し、どのような方法によって寄り添うことができるのかを説明する。
……決して難解な学術書ではない。しかし、単純なドキュメンタリーというわけでもない。「死」を扱うのが得意な宗教系の内容でもない。当たり前ながらハウツー本でもないし、お涙頂戴物でもない(私は泣いてしまったが)
繰り返すが、この本で扱っているのは「人の死」である。非常に難しいテーマであることは間違いない。終末期を迎えた人の気持ちは、この本を読んだだけで計り知れるものではないだろう。ただ、理解するためには、相当の努力が必要であり、相手の立場に立つことがいかに重要であるかということを、この本を通じて多少なりとも学ぶことができたと思う。
私の父はまだ70歳前だし、余命を意識するような重病を抱えてはいない。それでも、それほど遠くない時期に、この本に書かれていることが身近になると思う。その日を前に、有意義な時間を得られたかな。
価格は2800円(税抜)と結構いいお値段がするが、1人居酒屋で両親についてぼんやり考えた、と思えば安いものである(実際、それ以上の価値は保証する)。
冒頭の父との会話は、この本を読んだ後と前とでは、まるで違ったものにとらえられる。読む前ならば、マラソンチャレンジは
息子として、父のためを思っての言葉
ということになる。……だが、読んだ後ならば
父の立場には何一つ立つことができないまま、父のことを自分の立場に立ったまま思いながら発した息子の言葉
ということになるだろう。
かつての父が大事にしていたものではなく、今の父が何を大事と思い、向き合っているのかを、思い付きではなく、もっと時間をかけて一緒に考えたいと思った。
両親がまだ元気なうちに、この本に出会えたことはとてもありがたいことだと思う。もっと真剣に、親の死について考えてみたい。結局、それが自分の人生にとっても大事なことになるのだから。
……蛇足かもしれないが、この本に記されていた印象深い一文を一つ。
時が経つにつれて人生の幅は狭められていくが、それでも自ら行動し、自分のストーリーを紡ぎだすスペースは残されている。このことを理解できれば、いくつかはっきりした結論を導き出せる――病者や老人の治療において私たちが犯すもっとも残酷な過ちとは、単なる安全や寿命以上に大切なことが人にはあることを無視してしまうことである――人が自分のストーリーを紡ぐ機会は意味ある人生を続けるために不可欠である――誰であっても人生の最終章を書き換えられるチャンスに恵まれるように、今の施設や文化、会話を再構築できる可能性が今の私たちにはある。
『死すべき定め』より
――でも、こんな本を読んでるなんて、両親には絶対知られたくないですね(笑)いつも思いますが、本棚って、自分以外の人に見られたくないですよね~?特に身近であればあるほど(違う?)
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