知らなかった世界
火曜日。
雨。まだ、寒いのだか暑いのだかハッキリしない天気。ただ、ジメりとしていることは明確だった。
この日は内勤業務中心。ただ、仕事があまりなかった(気が向かなかった)ので、終業時刻になると、早めに帰社。十九時前に帰宅。
(こんな日は、軽く走るか)
ストレッチをした後に、外に出てランニング。走るコースは、いつもの河川敷。ただ、平日の夜に走るのは久しぶりだった。平日の夜は仕事を言い訳にさぼるため、土日か、平日の朝に走ることが多いのである。
――
この時間でもまだ外は明るい。まあ明るいといっても、曇り空のため、なんだかどんよりとした空気。時間のせいか、天気のせいか、私以外、だれも走っていない。人通りも少なく、ごくたまに、ご老人がとぼとぼと歩いているか、釣り糸を垂らしている人が目に映るだけである。
(――この時間帯は、なんだか寂しい雰囲気だなあ)
私自身、身体が真剣に走るモードにならないのか、ペースはいつも走るよりも大分ゆっくり。
まあ、ゆっくり走るのも悪くない、と、落語を聞きながら、呼吸が変わらないペースに走った。湿気ているせいか、ゆっくり走ってもあっという間に汗ばんでくる。
――
2km走ったあたりで、黒い塊が目に入る。
(……なにあれ?)
近づいてみると、塊の正体がすぐにわかる。
「あら、亀だわ!」
と珍しい出会いにはしゃいでしまい、つい写真を撮ってしまう。いつも土日に走るときに亀を目撃したことなどなかった。亀は私の存在に驚いてしまったのか、首を引っ込めている。
少しばかり亀を観察した後、私はランニングを再開した。そして、落語を聴きつつ、ぼんやりと考える。
(小学生のころ、俺も亀を飼ってたっけ。おじいちゃんが水槽で世話していたんだよね。もともと小さかったのに、あっという間にでっかくなって。でも、いつの間にかいなくなっていたんだよな。あの時は、「動物は死を悟ったら、自然と飼い主から離れていくんだよ」なんて、じいちゃんが言っていたような。「亀は万年」って言うのが嘘って、結構早い段階で知っちゃったんだよね。――そういえば、結局あの亀って、何年生きたんだろう?……さっきの亀も、もしかしたら死を悟った亀だったのかしら。それで、飼い主から離れていたところだったのかしら?……まさかね)
まるで根拠のないことを妄想する。ペースがゆっくりだからだろうか、頭の中での独り言がいつもより多い。
――
4㎞ほど走り、まもなく外が暗くなりそうな頃。
(あ、あれは猫。亀の次は猫か)
立ち止まり、ついまた写真を撮る。
(この河川敷、夜になると動物が結構いるのね)
私が写真を撮っていても、逃げる様子のない猫。人に慣れているようにも見える。草っぱらからコンクリート歩道のところまで降りて近づいてくる。
(あらかわいらしいわあ)
(あ、首輪してるんだ。……ん?なんか書いてある)
首輪は大分古いものらしい。暗くてよく見えなかったので、顔を近づけてみる。
そこには、
サワルナ
(……サワルナ?触るな?……サワルナ……)
強い言葉遣いの首輪と、対照的にのんびりしている猫は、なんだか不釣り合いで気味が悪くなった。
私はこれまで来た道を引き返した。少しだけペースを上げて。
振り返ると、猫はまだ歩道にたたずんでいた。
――
帰り道、あっという間に暗くなった視界には、猫や犬の姿がシルエットのように目に入る。数はさっきよりもずっと多い。
いつも、土日に走るときに
野犬注意
という看板が目に入っていた。それを見るたびに、そんなものはどこにいるんだ、と鼻で笑っていた。だが、私の知らなかった世界は、場所を変えずとも、時が変わった際に現れるものらしい。
帰路、再びあの亀に出会う。
さっき出会った場所から大分離れていたように感じる。私は反射的に写真を撮ってしまった。
(もしかして、この亀も……?)
かつての我が家の亀の記憶と、目の前の亀を照らし合わせる。
(……当時の亀、本当に寿命だったのかなあ。)
根拠はまるでないけど、少しだけ胸騒ぎを覚える。
曇り日の夜、帰り道は身体がすっかり冷えてしまった。