ギザ十な日々

2人の息子と妻との日々を書いています。

新しい挑戦二 『5年日記』を再開させる

 

 

約8ヶ月前。2018年の暮れ。

 

遠距離中の彼女とともにデパートの中にある書店をぶらぶらしていると――。

 

彼女「あ、これ」

 

「あ・・・」

 

彼女「今年で私、新しいのに変えるんだよね。どうしようかなあ、今買っちゃおうかなあ」

 

「うーん。どうしようかな。おれも買おうかなあ」

 

彼女「買うの?だって、前は全然ダメだったじゃん(笑)結局、私だけ独り書き続けることになっちゃったし」

 

「まあね・・・。でも、リベンジしたいんだよ。君が買い換えるタイミングなら、俺ももう一回買うよ。うん、決めたから」

 

彼女「ちょっと!」

 

と、勢い任せ、平積みにされた1冊を手に取り、彼女の意見を聞く前にレジに直行。

 

 

 

それがこれ。

 

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 そう、

 

5年日記

 

である。5年間分の日記を、1冊にまとめて書くことができる発明品である。なじみのない方のために、中身はこんな感じ。

 

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縦が日にち、その横に各年が記載されている。去年の同じ日に、自分が一体何を記していたのかをすぐに見比べることができるのだ。

 

無論、この日記帳に画像を載せられるわけでもないし、検索システムがあるわけでもない。内容のカテゴリー分けもできないし、未来の祝日の変更も対応できない。デジタル化された日記があふれる現代においては、あまりにも古くさいというか、今更日常の記録として取り入れるべきトゥールでもない。そう思うと、この5年日記自体がこの世から消えて無くなるのも、そう遠い未来でもないのかもしれない。

 

・・・でも、なんだろう、こういう手書きって、キーボードを打つのとは少し違う何かがあるんですよ。これは、わかる人にはわかる感覚かもしれませんね。こういうのの価値がわかる人って、ずっと書き続けるんですよね。期が変わるタイミングになると、この○年日記が必ず書店に並ぶところを見ると、意外と安定した需要がある物なのかもしれない気がします。

 

--とまあ、偉そうなことを書いたが、彼女から5年前にこの日記を一緒に書いていくことを提案されたものの、私は途中(開始1ヶ月)で挫折した。確かに書き続けたら大切な財産になるのもわかるのだが、毎日日記を書くって、すごく難しいことなんですよね。夏休みの一行日記ですら、夏休み最終日にまとめた書いていたタイプですから。

 

一方で、彼女は見事5年間書き切った。彼女が何を書いてきたのかは知らないが、それを5年も続けてきたことは素直に尊敬である(と同時に、劣等感も増幅された)。

 

私もリベンジするために、昨年末に再度日記帳を購入したのであった。

 

さて、2019年になり7ヶ月過ぎようとする今、しっかり日記帳を埋め切れたかというと・・・

 

残念ながらまた途中で挫折した。最後に記載したのは4月8日。ちょうど外部研修やら仕事が立て込んでいた時期である。それを言い訳に書くのを止めてしまっていた。そして、いつか必ず再び習慣化する!と思いながらも、日がたつごとに日記帳を開くことが怖くなっていた。

 

(再び二度とこの日記帳を開くことはないのかな)

 

と思っていたのだが――、このたび毎日チャレンジプロジェクトを開始したところで、手頃にチャレンジできることとして、

 

3ヶ月サボった5年日記を再開する

 

ということをかかげた。そして、日記を再開するに至ることができたわけである。

 

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ここに書いていることはたいしたことでも何でもないのだが――長らくサボってきた私にとっては大いなる一歩である。

この解放された気持ち、書き表したいことが沢山あるのだが――5年日記の小さなスペースでは余白が狭すぎる。一方で、このブログで書くとなると・・・いくらでも書きすぎてしまうので、ここらへんで割愛(ほっ)。