要するにメンテナンスです
やっぱり人間は難しいことに挑戦したほうがいいよ。オレはいやだけど
今週の休日はメンテナンス。
ここ数週間、仕事に加え、ランニングやら試験勉強に時間を費やしていた。平日土日もおんなじ感じ。生来、非活動的な私からすれば、かなり活動的である。が、その代償は細かいところに現れていて――
部屋が散らかっている(床、本棚、水回り等)。
日用品が切れている(コンタクト液、コンタクトレンズ、ティッシュ、洗剤類等)
筋肉痛や肩凝りが慢性化している
彼女との連絡が少なくなっている
髪がぼさぼさになっている
光熱費の支払いを忘れている
などなど、長い目でみたら大きな問題になりそうなことをいくつ抱えていた。
というわけで、今回の土日は、「優先順位は低いがいずれやるべきこと」をまとめて片付けることにした。
土曜日。
朝に軽く走る。でも、今回はメンテナンス優先なので、本当に軽く走るだけ。
家に戻り、たまっている洗濯物を片付ける。
次は髪を切ること。最初はおしゃれな美容院をスマホでチクチク探したが、今求めているのはスピードであり、色気ではない。スマホを捨て、家の近くにある理容室で散髪。安いし、仕事が早い。そして、私が求める髪型に整えてくれる(まあ、もともと大したクオリティを求めていないだけですが)。
帰りにコンビニにより、光熱費を支払う。そのあとにスーパーに立ち寄り、不足していた日用品をまとめ買いする。
家に帰り、乾いたワイシャツやハンカチのアイロンがけを済ませる。
軽く昼食を済ませた後に、部屋や風呂やキッチンを掃除する。クイックルワイパーでの床拭きも忘れません。(これが大事)
最後に、家の近くの整体に行ってマッサージを受ける。マッサージを受けるのはめったにない。しかし、最近の肩凝りやフルマラソンの疲労を考えても、受けて損はないと思ったのである。なんたって、今週はメンテナンス週末なんだから。
「ぎゃああああ!!っつっつっつ」
整体師「お兄さん、体中凝ってますね。下半身は強そうですけど、。腰回りから悲鳴が聞こえます。特に、首回りは石のよう。そして、ここを押すと――」
「ひ!っひ、くぅぅ涙」
整体師「首につながるツボです。やっぱりね(笑)大丈夫ですか?」
「大丈夫……(じゃないかも)です」
整体師「あははは。効いてますね」
「(ツボ押して意味あるんだろうな)……かなり効いてます」
終わった後は体中が熱を帯びていた。血の巡りが良くなったのだろうか?帰って風呂を浴びる。
そんな土曜日。デキルOLか!と自分につっこむ(ほくほく)。
――
日曜日。引き続きメンテナンス。
しかし、昨日にやるべきことは大体済ませていたので、特段やることもない。だから、グータラ過ごす。
9時過ぎまで寝て、起きてもワイドショーを見たり、カレーを作って食べたり、お茶を淹れてゆっくり飲んだり、漫画を読んだりする。
そのうち、本当にやることがなくなったので、先輩から勧められていた経営者自伝を読む。
記憶が年々希薄になるなか、そうした思い出を書きとめ、社員や子どもたちなどに伝え残したいと思ったことが、本書を書こうと思い立ったきっかけです。
ただし、単なる回顧録にしたつもりはありません。節目節目で考えたこと、思ったこと、成功したことだけでなく、失敗したことも書き記しました。
「賢者は歴史に学ぶ」と言います。本書を読んだ人が、会社経営や人生に少しでも役立てて下されば、これほどうれしいことはありません。
著書抜粋(大人の事情でぼやかす)
内容は著者の自伝的内容。あまりこういう本は読まないのだが、久しぶりに読んでみると結構面白い。ただ、自伝本によくあるように、幼少時から今に至るまでを本にまとめたい!と思えること自体がすごいと思った。過去の自分を振り返られる人生、実にうらやましい。……私はそういう人生を送れるんだろうか?
送れるように頑張ろう。そのためには大事になる前に、メンテナンスすることが大事ですね。
日曜日の夕暮れに本を読了。この時間には珍しく、仕事に行きたくない病が少し落ち着く。
久しぶりに携帯電話を見る。すると、電話が3件入っている。彼女からだった。
「あ、もしもし?」
「ちょっと、何やってたのよ。全然つながらないし。死んだかと思った」
「ごめんごめん、今週の休みはメンテナンスだったから――」
「そのセリフ毎週吐いているからね」
「……そうだっけ?(笑)いや、そんなことないでしょ……?」
「あるよ。旅行のこといつになったらちゃんと考えてくれるの?」
「今考える今考える!よし、だいぶメンテナンスすすんだしね」
一番大事なメンテナンスを忘れていたことに気づく、なんてオチもつかぬ日曜日でした。しくじり先生を見たし、そろそろ寝よ。
明日から頑張ろう。こう思えたら、良きメンテナンスだったと思うのであった。
田沢湖はそこにあるから(田沢湖マラソン後半)
(本日は美しき辰子姫から)
日曜日。9月17日の朝。
前回記した通り、この日、田沢湖マラソンに参加することになっていた。
父が運転する車で会場に向かう。助手席には母、後ろの席に私が座った。
移動中、私は母が早朝から作ってくれたおにぎりをほおばる。
父「……なんだか天気が悪くなってきたなあ。雨は降ってないけど、風がなあ」
母「風強いねえ。もしかして大会中止になるんじゃないの?」
「……大阪からはるばる秋田に来て、ここで中止になったら、目も当てられないな。もう二度と走りたくないって思うだろうね」
心配性の父、思ったことをすぐ口に出す母。そして、その2つの性格を足し合わせた性格の私。明るい話題はなかなか上らない。
ご存知の通り、今回の連休は、台風が日本列島を直撃した。
(振り返ってみても、実に恐ろしい進路であった)
大会当日の朝、台風は九州から関西に向かっているところであった。大会が行われる田沢湖でも、午後から雨の予報となっていた。
父「まあ、田沢湖マラソンっていっつも天気が悪い印象だけど、中止になったことはあんまりないから大丈夫だよ、たぶん」
「ふーん。そういえば、オヤジは今まで何回くらい田沢湖マラソンに出たんだっけ?」
父「10回くらいか?40歳ごろから60歳になるまで走ったから、まあそれくらいかな」
「ふーん、すごいね。俺はそんなに走れる気がしないよ(本当に)」
母「そんなことより、走り終わった後はどうすんの?どうやって帰るつもり?」
「そうねえ……」
当初の予定としては、翌日の月曜日の朝に飛行機で帰る予定だった。しかし、台風の影響で飛行機が欠航になる可能性が高かった。
「飛行機、無理かもねえ。最悪、火曜日に会社遅刻して帰ろうかな(笑)」
父「それはダメだろ。社会人として」
「いや、別にいいんじゃない?事前に上司に連絡しておけば。たぶん、いいよっていうと思うよ」
母「そういうのは口で『いいよ』って言っても、内心じゃどう思われているかわからんもんだよ。まだ若手なんだから、そういうとこ見られてるんだから。ちゃんと火曜日は出社しな」
「じゃあ、今日走り終わったら新幹線で帰るしかないなあ――」
父「走った後にそれはきついだろ?今日は家に泊まって、明日の朝に新幹線で帰ればいいだろ」
「そうもいかんよ。さっきは冗談で火曜日に出社するって言ったけど、月曜日はどうしても大阪にいなきゃいけないんだ」
母「なんで?」
「月曜日の午後に、どうしても受けなきゃいけない試験があるんだもの」
月曜日の午後2時ごろ、私はとある試験を控えていた。新幹線で帰るとなると、これに間に合うためには日曜日中に大阪に帰る必要があった。言い換えるならば、マラソンを終えた後すぐに新幹線に乗って帰らなければならなかったわけである(もし台風がなければ、月曜日の朝に飛行機で大阪に帰って、悠々と試験に向かう予定だったのだが)。
心から台風を呪った。そして、そもそも、フルマラソンの次の日に試験を入れる過去の自分を呪った。
無事会場に到着。すでに人でにぎわっている。到着したときの天気は曇り。台風の影響が出てきたのか、風が強くなり始めていた。
スタート30分前。ストレッチして体を温める。
「そろそろスタート地点に行こうかな」
母「トイレ行った?」
「さっき行ったよ。見てたじゃん」
父「まあ、ともかく頑張ってこい」
「うん。――あ、田沢湖マラソン経験者として、なにかアドバイスちょうだいよ」
父「アドバイス?……そうだなあ、まあやっぱり35kmを超えたあたりにある坂を甘くみるな、ってことかな」
父が言っているのはこの坂である。
(田沢湖マラソンコース高低図)
フルマラソンには「30kmの壁」というのがある。
前半の疲れやエネルギー不足等によって、30㎞あたりでそれまで蓄積してきた疲れが一気に心身を襲うのである。多くのランナーはそれまでのような身体の自由がきかなくなり、ペースも急激に落ち込む。文字通り、大きな壁としてランナーの前に立ちはだかるわけである。興味深いことに、30kmの壁は、ベテランだろうがアマチュアだろうが容赦なく襲ってくるようである。
この30㎞の壁こそ、あらゆるフルマラソンランナーにとって最大の試練になるわけだが、数多くのドラマが生まれるのもこのポイントであり、ここをどう乗り越えるのかが最大の醍醐味といえよう(多分)。
さて、この田沢湖マラソン、ちょうど35㎞あたりで急激な高低差があるわけである。35㎞と言ったら、30kmの壁に直面し、疲労が限界点を超えるかどうかのタイミング。ここで殺人的な高低差があることがどんな意味を持つかは、私ごときでも走る前から容易に想像できた。
父「――俺はこの坂に負けたんだ」
「?」
父はポツリという。
父「60歳、人生最後のフルマラソンも、この坂でリタイアして……そうだったんだよなあ」
「……」
母「その日は私が運転して家まで帰ったんだよね。リタイアしたような人に運転させるわけにはいかない、ってさ(笑)」
父「――そうだっけ?」
母「そうだよ。忘れたふりしてる」
「……なるほどねえ」
父「ともかく、この坂は辛い。登りがかなり辛いんだが、俺が本当に辛かったのはむしろ下りだな。硬直した足であの急激な下りはかなり響く。まあ、下りは無理せず歩くくらいのペースで走って、最後の平坦道を走りきることだな」
「覚えておくよ」
父「で、お前の目標タイムは?」
「……うーん、まあ、とりあえず4時間きることかしら?」
父「――そうか。まあ頑張れ」
――
3時間半~4時間の位置に並ぶ。周りを見ると、ベテランランナーが集っている。参加者は皆ツワモノに見えた。事実、このマラソン大会は、初出場よりもリピーターが多そうだった。
さて、10時。定刻通りスタート。
◯0〜10km 平均5:30/km
最初は抑え気味かつ一定のペース。しかし、序盤から結構な高低差があるせいか、速度調整が難しい。
(焦るな、とりあえず焦るな)
と心を落ち着かせる。なお、朝に食べたおにぎりがまだ充分に消化されていないようで、お腹が少し張っていた。後半ごろにはエネルギーに代わってくれていることを願う。
◯11〜20km 平均5:20/km
まだまだ余裕。ここあたりから少し加速。しかし、下りが多いせいか、身体が前のめりになり、予定以上にスピードが上がってしまう。
……今振り返っても実に恥ずかしいことだが、この時頭の中で
今日は調子がいい。頑張ればサブ3.5(3時間30分未満)行けるかも
なんて思ったりもした。そして、登りに差し掛かっても勢いよく進み続ける。しかし、この時にはしゃいでいた代償は、後半に容赦なく襲い掛かってくることになる。
◯21〜30km 平均5:25/km
ここまでが前半戦だとするならば、ここからは後半戦。走るコースは街中から田沢湖周辺にシフトする。
(前半が右側をうねうねし、後半から田沢湖を一周するのである)
21~30km地点は多少の起伏はありながらも、比較的平坦な道のりを走ることになる。そして、横には翡翠色に染まる田沢湖が広がっている。心地よいランニングコースと言えよう。
時折景観を楽しみながら、ペースを維持して走る。ここまでとても心地よく走ることができた――ここまでは。
〇31~35km 平均5:50/km
決して起伏が激しいわけでもないのに、脚が重くなる。
(――順当に30㎞の壁か。でもあと10kmで終わってしまうんだ…頑張れる)
ここにたどり着くまでの蓄積していた高低差の疲労がむき出しになり始める。脚はすでに悲鳴を上げていた。また、肩の凝りも気になり始める。だが、気持ち的にはまだ余裕だった。
5分おきくらいで伸びをしながら走りを続ける。しかし、気持ちとは裏腹に、平均ペースはみるみる落ち込んでいった。
35㎞地点、父が言っていたあの坂についにたどり着いた。
〇36~40km 平均6:35/km
(……!きつっ……!!)
この坂、想像以上にきつい。私だけではなく前後を走るほかのランナー達も同様のようで、次々に走ることをやめて歩き始める。
私は意地でも歩かないと心に決めて、走り続ける。ほとんど歩くのとペースが変わらない。だが、疲労はみるみる蓄積される。
(……骨が折れる!筋肉が裂ける!脚がもげる!!あああいい!!)
という気分。
なんとか上り坂を終えたころには、3時間20分を回っていた。ここでおおよそ36㎞地点。残り約6㎞。
(4時間切りを達成するには、残り6分40秒くらいのペースを維持しなきゃ……)
普段ならば6分40秒/kmというのはかなりゆっくりなペースである。しかし、この時の私はこれがかなり厳しく感じた。脚はすでに限界に達しつつある。下り坂に入ると、一歩一歩が上半身の方まで響いた。
父の言葉が脳裏をよぎる。
父「ともかく、この坂は辛い。登りがかなり辛いんだが、俺が本当に辛かったのはむしろ下りだな。硬直した足であの急激な下りはかなり響く。まあ、下りは無理せず歩くくらいのペースで走って、最後の平坦道を走りきることだな」
(親父が言っていたことは正しかった……こりゃかなりやばい……)
後ろのランナーから次々と抜かされる。ベテランランナーはこの坂との戦い方を熟知しているのか、ペースが乱れることなくどんどん先に行く。
一方、私の脚は硬直。
(もう、ダメ……)
ついに止まってしまった。
(初めて止まってしまった……)
この時、膝から崩れ落ちそうになった。だが、そこはなんとか気力で持ち直す。そして、片足ずつゆっくりと10秒ずつ伸びをした。
(まだいける……というか、いかないと親に合わせる顔がない!)
時計を見る。残り5㎞のところで3時間27分を過ぎたあたり。
(6分30秒/kmを守ることだけ。それだけ守って走ろう)
もはや戦略を練る余裕はない。簡単な目標だけを定め、自分のペースをコントロールした。
半分意識を失っているところで、給水所にたどり着く。
給水所にあったレモンを手に取る。口に含むと、酸味が一気に脳みそを刺激し、朦朧としていた意識を覚ます。
(もう、本当にラストなんだから……!)
〇41km~ラスト 平均6:10/km
ここまできたら、あとはもう気力。ゴールに近づくにつれ、応援が多くなってくる。その声を両サイドから受けていると、不思議とペースが上がってくる。もう、ここまで来たら走り切ることのみ。そして。
(父が撮ってくれた写真)
辛うじてゴール。
父「お疲れだったなあ」
母「お疲れだったなあ」
「……うん」
ゴールで待っていた両親が来てくれる。走り終わったあとは、脚が硬直してへたり込んだ。
終わったあと、豚汁と日の丸弁当。しばらくは寒いし気持ち悪い、で、全く食べられなかった。でも、時間が経つと食欲も回復し、一気にかき込んだ。やっぱり、走り終わった後のゴハンは何物にも代えられないうまさがあった。
ゆっくりと完走後の余韻に浸りたかったのだが――
父「じゃあ、そろそろ田沢湖駅に行くぞ」
「……そうね」
上述の通り、ランニング後はすぐに新幹線に乗って大阪に帰らなければならなかった。お楽しみ抽選会も参加することなく、父が運転する車で田沢湖駅に行く。東京経由大阪行きの新幹線乗車券を購入。出発まで30分ほどあったので、駅前の両親と駅前の食堂でラーメンを食べた。
「本当は家で祝いの酒を飲みたかったんだけどなあ。台風を呪うよ」
父「まあ、仕方ないわな」
母「今度はもっと余裕を持ったスケジュールにしな」
というわけで、今回の田沢湖マラソンはあわただしい感じで終わったのであった。まあ、大会が中止にならなかっただけ幸せですね。
最後にタイムですが、
3時間59分50秒台
で、無事に4時間切り達成しました!
振り返ってみても、本当にギリギリでしたね。この執念をもっと仕事に活かしたいと思います(仕事よ、もっと私を追い込んでみろ)
親父よ、今度は一緒に…なんて願うには遅すぎたかもしれない。でも、とりあえずタスキは受け継いだ。そして、毎年実家に帰る口実ができたかな。
おしまい。
父の愛したコース(田沢湖マラソン前半)
走るため、走り出すためには、どんな理由であってもかまわない。少なくとも、そう考える方が心地よい。すなわち、どんな理由であっても、走ることは、人間の内部に隠れていて見えなかったエネルギーの爆発である。そのエネルギーは人によってはとても微弱のように見えながら、間違いなく過剰なものだ。そしてその爆発は、悪いものであるどころか、大変に美しい。それは人間が人間であるということなのだから。
原章二『マラソン100回の知恵』より
ここ最近、会社内で私が
マラソン好き
ということになっている。
……いっておくが、別に自分で「マラソンが大好きなんですわー」と言いふらしているわけではない。ただ、お昼の休憩中、一度事務職の先輩と雑談程度にこんな会話をしただけ。
先輩「焼いも君は土日は何してんの?」
「土日ですか?……特にすることもないんで、走ったりしてますかね」
先輩「走ってんの?見かけによらないね(笑)」
「別に、そこまで本格的に走ってないですからね」
先輩「大会とか出るの?」
「そうですね、何回か気まぐれでマラソン大会に出てますかね」
先輩「大会って、何km?」
「まあ……たまにフルとかですかね。本当に、たまにですよ」
先輩「フル!?すごいじゃん」
「い、いえ別に全然……、本当に大したことないので……ちゃんとやっている人に失礼なレベルです」
先輩「ふーん」
という感じ。だが、こんな会話を会社でたくさんのつながりを持つ人とすると、あっという間に広がってしまうものである。そして、うちの会社の場合、この会話をした人がソレにあたる。
知らぬうちに、会社であまり話さない人からも
「よっ、フルマラソン君」
だの
「次の大会はいつなの?」
だの、
「実業団に所属してるんだって?すごいねえ」
だの、あたかも体育会系の扱いを受けてしまっているわけである(実物はただのウラナリである)。
フルマラソンを大会で走ったといっても、普段は土日にちょこっと走っているだけである。それに、タイムだって、最近かろうじて4時間を切れるようになったレベルである。無論、実業団に所属なんてしているわけもない(誰だそんなこと言ったやつは)。毎日綿密且つコツコツ練習をこなしているベテランランナーからすれば、この程度で「ランナー」を気取られるのは苦笑以外の何物でもない。(嗚呼、恥ずかしや)
私自身、別に運動が得意なわけでない。むしろ大の苦手である。苦手な割に、小・中・高・大と、すべて運動部に所属していた。だが、どの部活でもいい結果を残すことはできず、まあ、ほぼすべて補欠要員であった。本当は運動部よりも吹奏楽部に入って音楽をやりたかったのだが、いろいろ事情があって運動部に入らざるを得なかったのである。本当は吹奏楽部に入って、今頃は世界的なトランぺッターになる予定だったのだが(トランペットなめんな、という声が今聞こえました)。
ただ、運動は苦手だったものの、この年になるまでちょこちょこ走ってはいた。走ることだけは、幼少のころから細い糸を伸ばしたように脈々と受け継がれ、今に至るまで続いている数少ない習慣となっている。だから、今もその習慣に従って走っているだけなのだと思っている。
では、なぜ生来の運動嫌いにもかかわらず、私は幼少の頃から走っていたのだろう?
この疑問については明確な答えがある。それは、父の影響である。
私の父はマラソンが好きだった。40歳中ごろからマラソンをはじめた父は、一気にのめりこんだ。何度もフルマラソンに出場し、時にはホノルルまで走りに行っていた。父の部屋には、これまで参加した大会でつけていたゼッケンが壁にびっしり貼り付けられていた。(60歳を過ぎて走ることをやめてからはすべて外してしまったが。)
幼いころ、よく父の早朝ジョギングに家族で付き合っていた。運動嫌いの私にはかなり苦痛だったろうが、走り終えた後のポカリスエットや三ツ矢サイダーがおいしかったから、たぶん付き合うことができたんだと思う。
ところで、私が記憶する中で、私自身が初めて走ることに「真剣」に取り組んだのは、今から約20年前のある大会である。それは、秋田県で毎年行われている
田沢湖マラソン
である。
田沢湖(たざわこ)は、秋田県仙北市にある淡水湖。一級河川雄物川水系に属する。日本で最も深い湖であり、国内で19番目に広い湖沼である。その全域が田沢湖抱返り県立自然公園に指定されており、日本百景にも選ばれている景勝地である。
日本で最も深い湖である田沢湖。そして、その田沢湖を中心として行われるのが「田沢湖マラソン」である。
マラソン好きな父が何度も繰り返し挑んで走ったのが田沢湖マラソンだった。東北の田舎にある我が家にとって、田沢湖マラソンは、近くで行われる数少ないフルマラソン大会だったのである。(それでも、結構離れているんだけどね)
この大会、私も何度か母と一緒にペアマラソン(3km)で参加した。この時のことは、おぼろげながら覚えている。当日、早朝から父が運転する車に乗り、会場に向かった。それが当時は大旅行で楽しかった。
父はフルマラソンを走り、その帰りを待つ間、私と母で3㎞走っていたのである。振り返ってみると、運動嫌いな私が3㎞も走るのはとてもつらかったと思うが、どういうわけか、走り終わった後の豚汁がおいしかったことしか覚えていない。食べ物の記憶の部分はよく覚えている。本当に、食は記憶を保持する重要なツールである。
ちなみに、両親の寝室には、ペアマラソンで走った時の写真が今も飾っている。きっと両親にとっても思い出になっているのだろう。
ーーともかく、田沢湖マラソンは、私にとって初めて本格的に走った経験だし、少なからず、今のランニング趣味に影響を与えていると思っている。
さて、なぜこんなことをダラダラ書いたのかというと、実は、今年9月17日(日)、そんな大事な思い出の田沢湖マラソンに参加してきたからである。……前置きが実に長いですね(笑)
田沢湖マラソン、今年で第32回目となる、伝統的なマラソン大会である。そして、私が参加したのは、やっぱりフルマラソン。
(コース)
概要
開催日:9月17日(日)10:00~
参加定員:1,600人
参加料:4,500円
制限時間:5時間
はじめ20㎞までは街中をぐるぐる回る。その後、田沢湖周辺を1周(約20㎞)してゴールする流れ。
父が何度も挑戦したこのコースに、私も今年挑戦することになった。田沢湖マラソンが今も続いていることに、心から感謝したい。
……走る理由?まあ、気まぐれですね(笑)
――
前日の土曜日の朝、飛行機で実家に帰省。その日は実家に泊まり、翌日曜日の明朝、車で田沢湖に向かうことにした。実家の両親も応援ということで一緒に向かうこととなった。
私のマラソンの原点である田沢湖マラソン――前置きが長くなりすぎたので、内容は後半に続く。
未来は役員と僕らの手の中
運命は我々の行為の半分を支配し、他の半分を我々自身にゆだねる。
この夏のある時期、会社で恒例の「異動」が発表された。
会社または組織の中において、担当する職務または役職、勤務地が変わること。『人事異動』とも呼ばれる。
例えば『総合職』として採用された場合、従事する職務や勤務地を特に限定しない包括的な雇用契約が結ばれていることが一般的。職務や勤務地を明確に限定した雇用契約でない限り、会社は原則として自由に人事異動を命じることができる。
コトバンク『異動』より
このような書き方をすると、私自身が異動になったようであるが、私は異動していない(してないのかーい)。ただ、普段、私の日常にかかわっていた人の多くが異動となった。そのため、私が変わらなくても環境の変化が大きかったのである。
さて、異動する人たちを見送る側になったせいか、観察とまでは言わないまでも、異動するたちのふるまいを意識して見ていたような気がする。
彼ら彼女らの反応は、実に個性が反映されているように感じる。まあ、当人からすれば、大きな変化だろうから、人間性が自然と現れるのも当然といえば当然なのかもしれない。
以下、あくまで私が感じた印象を記してみたい。別に何か学術的にのっとって書いたものでもない、単なる私の偏見の羅列である点、ご留意を。
〇異動を喜んでいるように見えるもの
このタイプの反応を示した人たちが一番多かった気がする。振り返ってみると、若い人が多かったような。あとは、今の環境に対する不満を述べている人が中心だったような(笑)
公然と喜びを口にだすものもいれば、表情や声色で感じるものもいた。関係者に電話をかけまくり、異動に対する喜びの感情を共有したがる。送別会でも、次の勤務地の話や決意表明を比較的ポジティブな口調で語っていた。
このタイプは、異動に必要な引継ぎ作業を実に素早くこなしていた。そして、「この日までに引継ぎ作業を終わらせ、次の勤務地に着任します」という意思が強く感じられた。それが後任者をシッカリ思った行動であったかは別で、とにかく決まった期日で終わらせることを最優先にしていたように思う(それが中途半端な状態であれ)。新天地に早くいきたいからだろうか?(それとも今の場所から早く去りたいからだろうか?)。
別に嫌味を言いたいわけではなく、当人の見立てに反し、この方々は転勤先での困難が多くなるような印象を受けた。普段よく話す同僚がこの態度を示すと、少し不安になってしまった。なんでだろ?
まあ、本人の希望通り、うまくいってくれることを願うが。
〇不安を抱くもの
このタイプの反応を示す人は、どちらかというとベテランであまり転勤をしてこなかった人が多かったように思う。
この方々は、新天地に移るための動きが鈍い。引継ぎ作業もじっくりやっている。後任者からすればありがたいだろうが、当の本人の行く末をどこまでまじめに考えているのだろう、と老婆心ながら思った。新天地の話題もよくするのだが、内容はところどころで不安を感じさせるものが多かった(本人はポジティブ、もしくはひょうきんに話しているつもりでも)。
「まあ、この人なら何とかなるんだろう」と思う人もいれば、「この人、病気になるんじゃないかしら……」と、こちらまで心配になる人もいた。どちらかというと後者が多かったかしら(笑)
困ったことに、このタイプが、私に懇意に接してくれた人や、今後深くかかわりそうな人が多いのであった(どういう意味だろう)。
〇淡々としているもの
異動に対してどう思っているのか、よく見えない人。新天地の話題もあまりせず、淡々と引継ぎ作業をこなす。次の場所でも頑張ってください!なんて言葉をかけても、少し笑うか、少し愚痴や不安をこぼす。まあ、いつもと同じ様子の人。送別会では、形式的な挨拶をこなし、感情を表にあまり出さないように済ませていた(ように見えた)。
この方々は、別にベテランばかりだったわけではない。若手の人でも、こういう態度を示す人は何人かいた。
まあ、こういう書き方をすると察しもつくだろうが、異動に対して淡々としているように見える(外部に見せる)人というのは、不安な未来を想像できなかった。もちろん、本人の中では複雑な心境を秘めているのかもしれないが。
いずれにしても、この人だったら、たぶん新しい場所でも今のように淡々と仕事をこなしていくんだろうな、と感じたのであった。
以上。個人的偏見の羅列であった。まあ、サラリーマンである以上、異動は避けられない。私の見立てが正しいか間違っているかどうかは別にして、異動を命じられた人は、それぞれいろいろな思いを抱えていたことだろう。もしも今、自分が異動を命じられたらどういう反応を示すんだろう?
「上が決めたことに応えるのがサラリーマンだ」
「やりたいことをやるのではなく、今やっていることを好きになるんだ」
「仕事は選べないし、仕事を選んではいけない」
こんな言葉が今でもよく目にすることからも、多くのサラリーマンの共通認識として、過度に期待や不安を抱かずに淡々と異動を受け入れたいと思うものではないだろうか(違うかしら?)。
今回の人の異動に対する動きを見て、そうは思っても、やっぱり言動に感情は出てしまうものなんだよなあ、と感じた。
自分が異動の時には、淡々と異動を受け入れたいものだと思ったのであった。
余談だが、異動する人たちを見送る人たちも、結構個性が出るものだと思った。新しく来る人に期待を込めたり、異動の内容に文句をつける人もいたり、次の異動に期待を込める人もいたり、私のように異動する人をじろじろ見る人もいたり――。
異動は人間模様が出て面白いですね。社会人の醍醐味だなあ、と改めて感じたのでした。
お休みの過ごし方(もしくは語り方)
よく、同僚や取引先の方から、
休日はどう過ごしてるの?
と聞かれる。私に限らず、いろんな人がこの質問を一度はされたことがあるのではなかろうか。この質問に対し、私はいつも答えに窮する。決まって
「そうですね~、ぼけっとテレビ見たり、ベッドの上でゴロゴロしたり、家の近くにあるチェーンのカフェでボーとしてますかね」
という回答になる。こんな回答を相手が求めているわけではないのことくらいわかっている。
独身男のくせにつまらんやつ
こう思われていることくらいわかっている。こういう時には
そうですね、ちょっと遠くまで買い物行ったりしますね。最近だとこんなものを見つけたんですよ~。
とか
旅行に行くことが多いですね!この前も京都に行きましたし、先週は奈良の方でしたね。
とか
友達と野球ですね。この前も試合したんですよ。ポジションですか?こう見えてピッチャーです。リリーフですけどね(笑)
とか
合コンパーティに行ったんですよ。3対3だったんですけど、まあ、全然ダメでしたね(笑)
などと言ってみたいものである。営業職なんだから。営業なんだったら、面白い経験をたくさんしないと。いろんな場所に行き、いろんな人に会って、時には羽目を外したり、時には欲望に身を任せたりーー。そういった幅広い経験が、営業マンとしてのトークにつながるんだから。
……でも、今回の休日もやっぱり。
――
日曜日。朝9時起床。
昨日は夜遅くまで起きていたため、起きる時間が遅くなってしまった。
テレビをつけると、すでに甲子園球児たちが熱い試合を繰り広げている。
私も外に出て、走ろうかと思ったが――
「……走りたくない」
夏は暑い。暑いので走りたくない。走りたくないからベッドでうだうだと過ごす。携帯で「走りたくない」と検索する。案の定、走りたくないときは、思い切って走らない!という答えが出てくる。
しかし、この答えに耳を貸している場合ではない。今日はやらなければならないことがたまっているのである。いつのころからだろうか、頭の中にこんなイメージがいつも浮かぶようになった。
というわけで、重い腰を上げて着替え、外に出る。そして、イメージにある通り、距離は関係なく走る。
(最近、少しずつ走る量を増やしています。10㎞前後ですが――。ガーミンの画像、久しぶりでんがな)
ゆるゆると7㎞走った。暑くて脱水症状になるところだった。帰りにコンビニでアイスとサイダーを買いました。暑い中だったのでとてもおいしかったです。
家に帰り、ほかのやるべきことを片付ける。ランニングをした後だと、さっきのうだうだが嘘のように作業が進む。
最後に残った英語勉強をしようと思ったのだが、甲子園に夢中になったり、携帯をいじったりしているうちにこんな時間。でも、今日は英語やりたくない……でも、やらないと……。
とりあえず、気分転換のためにコメダ珈琲にでも行こうかしらん。
――
こんな土日を繰り返してます。やっぱり、人に言えるほどのこともない、大変に地味な休日ですな。足りないものは――やっぱり人との交流なんかしら……?
……いや、伝え方?
「走るのが趣味なのですごい走ってます!終わった後にサイダーとか飲むと格別なんですよ!」
とか
「掃除が好きで、土日は掃除とか洗濯を徹底的にしますね。そうすると月曜日を気持ちよく迎えられるんですよ!」
とか言えばいいのかしら?
……でも、なんかうさんくさいな。言うほど走ってないしな。言うほど徹底的な掃除はしてないしな。
むむむむむむーー。お休みに活動的な方、もしくは楽しく語れる方々がうらやまし。
今夜タガを外さず
闇の夜は 吉原ばかり 月夜哉(かな)
榎本其角
二葉亭四迷という人が、この国にはじめて『I love you』という言葉が入ってきたときに、『あなたとならば死んでもいい』と、こう訳したんだそうであります。もちろん、その頃、人を好きになるとか嫌いとか、もちろん、『愛』なんて言葉がなかったから訳せなかったんでしょうがーー情を通じるなんていうね、そういう言葉もありますが、みんながみんなそんな覚悟でもって、人を好いたり好きになったり好かれたり――ということではないんでしょうけども、最大公約数を求めようと思って、みんなにわかりやすく、そして、少し激しく、という言葉で訳した時は、日本語で『I love you』を『あなたとならば死んでもいい』と、そう言っていた時代が、はるか昔ではありますが、有ったころのお話ではございまして――
立川談春『紺屋高尾 まくら』より
今日は会社がお休み。
さぼりではなく、会社から有給取得を命じられていたため、お盆休みにつなげていたのである。でも、ちょっと休みすぎて明日から会社に行くのが憂鬱。
少し遅めに起床後、部屋を掃除したり、軽くランニングしたり、英語の勉強したり、甲子園をぼんやり観たりして過ごした。せっかくの平日休みなのに、特別なことは何もなかった。ちょっともったいなかったかな。
こんな日は、夜の街に繰り出してイイ事ワルイ事するのがイキな男であるが……私はふと、本棚にあった一冊の本を手に取る。
私、実は落語が結構好きで、通勤中や出張中によく聴いている。落語を聴いた直後に商談に入ると、心なしか言葉がスムーズに出る気がするのである(営業トークに悩む諸君、よかったら真似してみてね)。
ところで、落語では、男の三大道楽である
飲む、打つ、買う
が題材になることが多い。飲むはお酒、打つは博打、を意味している。では、買うっていったい何?そう、
女遊び
ですね。私は生来まじめな性格ですので、この女遊びというものがまるでよくわからないのですが(あははは)――。
落語では
吉原
がよく舞台として出てくる。遊女3000人の不夜城、津々浦々の男どもが一皮むけるために集ってくる(場合によっては皮という皮全てをむかれてしまう)。
私の好きな落語の演目も、この吉原でつとめる遊女が重要な登場人物であることが多い。そこで、落語の世界観をより深く理解するために、この本を購入したのであった。しかし、案の定、なかなか読むひまがなくツンドク状態となっていた。
せっかくの有休なので、この本を読みながら吉原の世界にタイムスリップすることにした。
――
本の冒頭。
闇の夜は 吉原ばかり 月夜哉(かな)
この俳句は読点をどこに打つかで、まったく正反対の意味になる。
闇の夜は 吉原ばかり 月夜哉(かな)
闇の夜は、吉原ばかり月夜哉(かな)
闇の夜は吉原ばかり、月夜哉(かな)
前者は、闇の夜でも、不夜城の吉原だけは満月の夜のような明るさである。
後者は、月夜が煌々と輝いている夜でも、吉原の女たちの身の上は闇夜である。
永井義男『図説吉原事典』P4
本のタイトルにある通り、小説やドキュメンタリーではなく、吉原に関する資料を集めてまとめた事典本である。江戸の風俗文化を語る上で決して外すことができない吉原の実際を幅広く知ることができる。
吉原の大衆文化としての側面は、読んでいて面白かった。……しかし、それ以上に印象に残っているのは、吉原の暗い側面を取り上げた第7章『吉原の暗黒』である。
吉原で働く女性は、なぜ吉原で働かなければならなかったのか?
何歳まで働くことができるのか……働けなくなったらどうなるのか?
避妊はどうしていたのか?もしも病気になったらどうするのか?
吉原から逃げようとしたら、どうなるのか?
こうした疑問について、この本はある程度の答えを教えてくれる。ただし、その答えはどれも残酷な内容ばかりである。
吉原で働く女性は、なぜ吉原で働かなければならなかったのか?
→実質的には人身売買。
何歳まで働かなければならないのか……働けなくなったらどうなるのか?
→一般的には「年季は最長十年、二十七歳まで」。その後はーー。
避妊はどうしていたのか?もしも病気になったらどうするのか?
→正確な避妊方法など存在せず、ほぼ100%
遊女が吉原から逃げたらどうなるのか?
→徹底的な追跡。見つけたら絶望的な折檻。
……今の風俗嬢とは少し違うのかな?それとも、今の風俗嬢もいろいろな事情を抱えているのかしら?私はそういうのが疎いの――いや、詳しい方なのだが、これは文化史として調べてみるのも興味深いものである。(お気楽なもので)
――それにしても、ああ、なんだか落語がききたくなってきた。今日は立川談志の『紺屋高尾』で一杯。
明日から仕事頑張ろう。ゆっくりとした文化的(笑)休暇でした。
いつかまた偶然に
劣等感の固まりがずっと、息をしてもパンを食べても、飲み込めないところに詰まってんだ、バケツ3杯分じゃ足りないくらい
あなたが生きているこの世界に僕はなんどでも感謝するんだ。溜め込んだ涙が腐ってしまう前に、ハローハローグッバイ
藍坊主「ハローグッバイ」
日曜日。
母「ここのスーパーにも無いわねえ……」
「これで3件目か」
母「お盆になると、かっぱ巻きはなくなるんだよ。どこも納豆巻とか鉄火巻ばっかり。なんで?」
「知らん。これは重要な発見だ。『スーパーはお盆になるとかっぱ巻きを売らなくなるのはなぜか?』という疑問が見つかったよ。あとで調べてみる」
母「もうあきらめるか――」
「でも、お孫ちゃんはかっぱ巻きが好きなんでしょ?それにここまで探してあきらめるのはねえ」
母「じゃあ、次が最後。次で見つからなかったらあきらめる。ほら、いくよ」
お盆なので実家に帰省中。せっかくなので、母の買い物に付き合う。
この日、母が探していたのは「かっぱ巻き」である。
この日の昼に、私の兄貴夫婦が実家に遊びに来るということで、朝から昼ごはんの食材を探していたのである。
兄貴夫婦の子供、すなわち私の母にとってのお孫ちゃんが、かっぱ巻きが好物なのである。そこで、スーパーの御総菜コーナーにあるかっぱ巻きを購入しようとしていたのだ。だが、なぜかどこのスーパーにもかっぱ巻きが置いていなかった。
だったら、自分で作ればいいじゃない
と言いたくもなったが、それは少々お門違いな言葉だと思って引っ込めていた。
母は、買い物をする時間そのものが好きなのである。いろんなスーパーをめぐってかっぱ巻きを探す行為を楽しんでいるのだ。だから、息子として、何も言わずに買い物に付き合いたかった。もちろん、うちの母だってかっぱ巻きを作ることはできるだろう(たぶん)。
かっぱ巻きがないことを知り、母はスーパーの出口に向かう。
「あ、ごめん、ちょっとトイレ」
母「すぐ戻ってきてよ。ほかの店で買ったやつが傷んじゃうから」
そのまま店のトイレに行った。用を済ませてトイレからでると――。
「あれ、やきいも?やきいもだよね?」
男性に声をかけられる。その声を聴いて、私は彼が何者なのかすぐに分かった。しかし、唐突だったので声に詰まる。
「え、え?」
タマネギ「やきいもでしょ?俺だよ、タマネギだよ」
「あ、ああ!久しぶり」
タマネギ君は、私の高校時代の同級生である。そして、私にとって、「友人」と呼べる数少ない人だった。
高校時代、私はあまり友達がいなかった。高校の学年が上がるほどに、一人でいる時間が長くなっていった。思春期で人付き合いに悩むタイプでしたからね(笑)。あまり自分の過去を懐古するのが好きではないので、ここで私の高校時代を書くことはしない(あんまりいい思い出もないしね)。
そんな私ではあったが、タマネギ君とは卒業するまで親しくしてもらった。休み時間に話したり、放課後に一緒に帰ったりした。部活も違うし、進路も全然違っていたけど、共通の話題は事欠かなかったように思う。
――そんなタマネギ君だが、高校を卒業するとすっかり会うこともなくなったし、連絡もしなくなった。まあ私自身、大学進学後も人付き合いに悩む性格は続いていたから、携帯変えても連絡先が変わったことを肉親以外に伝えなかったからね(とてもめんどくさいやつでした……今も)。
ともあれ、そんなタマネギ君との約10年ぶりの再会は唐突に訪れた。
「なんかやせたね。それに背も伸びた?あはは」
タマネギ「いや、変わってないよ(笑)あれ、こっちに住んでるんじゃないよね?帰省中?」
「ああ、うん。今、俺、大阪にいるんだ」
タマネギ「大阪?今何やってんの?」
「ええっと、チョメチョメって会社に勤めてるんだ。これでも営業だよ」
タマネギ「へえ~そうなんだ」
「タマネギ君は?」
タマネギ「俺は(地元の)大学病院で看護師してるよ。あれ、いつからこっちに来てたの?」
「え、ええっと、いつだっけ?あはは、忘れちゃったよ。でも懐かしいなあ」
タマネギ「そうだね。あれ、連絡先とか俺知ってるっけ?」
「え?――ああ、大丈夫?かな?うん」
タマネギ「いまの連絡先教えてよ」
「あ、そうだね――あ、ごめんちょっと携帯忘れちゃって。あはは。また連絡するよ。――ごめん、ちょっとおふくろを車に待たせてるから」
タマネギ「あ、うん。じゃあ、また」
約30秒で、私は、タマネギ君と別れた。なぜか逃げるようになってしまった。
――
母「まったく、かっぱ巻きのくせにてこずらせやがって」
「よかったよかった。じゃあ、さっさと帰ろうよ。孫が来ちゃうよ」
母「あ、もうこんな時間。早く帰らないと、急げ急げ」
結局、次のスーパーでもかっぱ巻きを見つけることはできなかった。それでもあきらめられなかった母は、しょうがないので次が最後、ということで別のスーパーに向かった。そこで、ようやくかっぱ巻きを見つけることができたのであった。
かっぱ巻きを見つけた母は嬉しそうだった。今朝から探していた物がようやく見つけられたのだから、喜び一入であろう。
ただ、私は、かっぱ巻きのことはもうどうでもよくなっていた。
――
月曜日。実家を後にし、飛行機で大阪に帰る。(行きは青春18きっぷ、帰りは飛行機であった)
大阪に戻り、行きつけのコメダ珈琲でこの日記を記す。書いてある通り、今もタマネギ君とのことを振り返ってしまう。
……なぜ私は、タマネギ君との再会を、かっぱ巻のように喜べなかったんだろう。……「母のかっぱ巻き」と「私の思い出の人」を比較するのはおかしいけどね。
でも、自分自身、10年ぶりにタマネギ君と会えたなら、もっと嬉しい再会になるものだと思っていた。でも、今回は嬉しいどころか、逃げるような対応になってしまった。情けないって、18の俺は言うだろうね。
上に書いたけど、高校時代の知人友人の連絡先は、携帯を変えたときに全部消えてしまった。こっちから連絡はできないし、こっちの連絡先が変わったのだから、あっちから連絡することもできない。すべては自分が蒔いた種であるし、そのカバーもできなかった。
嗚呼、情けない。10年たっても変わらずに、人付き合いに悩み続けている。
ここまで書いて、高校時代、タマネギ君とともによく聴いていた「藍坊主」というロックバンドを聴いてみる。
高校時代ぶりに聴いてみたけど、やっぱりいい歌ばっかりだった。「雨の強い日に」「ウズラ」「鞄の中、心の中」「センチメンタルを超えて」「テールランプ」「ジムノペディック」「春風」「ハローグッバイ」「水に似た感情」――名曲ばかりである。タマネギ君は、「鞄の中、心の中」が好きって言っていたっけ。
……わがままだけど、また偶然会いたいなあ。その時はうまく再会を喜びたいものである。いつになるかわからないけど……。情けないなあ。