シューズはどこへ消えた?
これまで犯した過ちを振り返り、将来の計画に生かそうと思った。人は変化に対応することができるようになるのだ。それは――
物事を簡潔に捉え、柔軟な態度で、すばやく動くこと。
物事を複雑にしすぎないこと。恐ろしいことばかり考えて我を失ってはいけない。
小さな変化に気づくこと。そうすれば、やがて訪れる大きな変化にうまく備えることができる。
変化に早く対応すること。遅れれば、適応できなくなるかもしれない。
最大の障害は自分自身の中にある。自分が変わらなければ好転しない――そう思い知らされた。
スペンサー・ジョンソン 『チーズはどこへ消えた?』より
弱者は決して許すことができない。許しとは、強者の態度である。
マハトマ・ガンディー
水曜日。朝。
「……どういうこと?」
朝、会社に出勤しようとして玄関に立った時、違和感を抱く。
「……靴。あれ?」
玄関に脱ぎ散らかされている一足の靴は、おそらく昨日私が履いていたものだろう。しかし、わけがわからない。なぜならば、
このシューズは私のものではないから
である。
「なんで……?」
私は、ビジネス用の靴を3足を持っているのだが、そのうちの1つがなくなった。代わりに、今持っている靴とよく似ている靴があったのである。違う点は、色だけであった。
どうやら、昨日のどこかのタイミングで、靴を間違えてしまったようである。
「まいったなあ……」
しかし、私以上にまいっているのは、私のせいで靴を失ってしまった方であろう。とんだご迷惑をかけてしまった。
ひとまず、昨日の自分の行動を振り返ってみた。
振り返ってみると、昨日はいろいろな場所で靴を間違える可能性があったようであった。
可能性1 月曜日に泊まったカプセルホテル
今回の月曜日と火曜日は東京出張だったため、月曜日にビジネスホテルに泊まっていた。いつもならば直前に連絡しても必ず予約できるお気に入りのホテルがあったのだが、この日はあいにくの満室だった。ほかのホテルも当たってみたのだが、直前に確認したこともあり、高級ホテル以外はどこも満室となっていた。
そこで、仕方なく、最終手段としてカプセルホテルに泊まった。(カプセルホテルは学生時代から愛用していたため、特に抵抗はない)
当日宿泊したカプセルホテルには靴だながあったのだが、そこはフリーに使えるところで、出し入れも自由にできる。
「もしかして、朝にホテルを出たとき、間違えたのかしら?」
カプセルホテルに泊まった日は、先輩からの誘いで遅くまで飲んでいた。朝は寝ぼけ状態だったので、靴を取り間違えてしまった可能が十分ある。
冒頭述べた通り、色違いではあるものの、私が持っている靴とサイズやデザインがまったく同じだったため、私の間抜けっぷりからしたら、火曜日も気づかずに履き続けたかもしれない。
とりあえずホテルに電話してみた。
「――あ、そうですか。わかりました、ありがとうございます」
……他の客から靴に関する問い合わせは来ていないらしかった。問い合わせが来たら電話してもらうよう、約束はしたが……。
ひとまず、べつの可能性も考えてみることにした。
可能性2 開発センターの靴だな
ホテルを出たその日は、東京出張2日目。新商品について話し合うべく、東京にいる先輩社員とともに、自社の研究開発センターに訪問していた。
開発センターでは、訪問客は靴からスリッパに履き替える必要がある。特に鍵をかける必要はない。
「もしかして、開発センターから帰るときに靴を間違えてしまった……?」
この場合、話が少し厄介になる。開発センターには、我々のような自社の営業が訪問することもあれば、他社の営業や関連業者も出入りしている。自社の人間の取り間違いならば問題は比較的小さいが、他社の場合、迷惑をかける範囲が広くなってしまう。
私は、焦りつつ、こっそりと開発センターにいる同期に電話をしてみる。
(本人ではない。同期にちょっと顔が似ているモデルさん)
同期「はい。もしもし」
「あ、もしもし?ちょっと相談したいことがあるんだが」
同期「なに関係?」
「靴関係。事情はコウコウコウコウコウ」
同期「何それ(笑)普通間違う?」
「いや、わからん。どこで間違えたのかわからんのだ。助けてくれ」
同期「助けて、って言われてもなあ。取り合えず事務職の人に聞いてみるけど」
「頼むぜよ。俺の名前は出すなよ」
というわけで、同期に確認を取ってもらったのだが――。
プルルル
「はい、やきいもです」
同期「あ、もしもし?僕だけど」
「あ、待ってたよ。どうだった?」
同期「そういう話は特に来てないって。たぶん開発センターで間違えたわけじゃないんじゃない?」
「わかった。じゃあね」
同期「おい、それだけか。こんなくだらないことに付き合わせやがって」
「靴が見つかったらお礼する。報告を待て」
というわけで、可能性2の可能性は著しく低くなった。
可能性3 居酒屋
開発センターの帰り、先輩社員数名とともに、ふらりと居酒屋に行く。お店は気さくな赤ちょうちん居酒屋だった。
「……あの店、靴を脱ぐシステムだったよな」
そのお店は座敷であり、皆が靴を脱いでいた。当日のお店は結構繁盛していて、お客も満席だった。そして、座敷の下には、ビジネスシューズがたくさん置いてあった。
なお、その日の飲み会は、私以外は東京にいる先輩たちだった。普段関西にいる私だけは、その日のうちに新幹線に乗って帰る必要があったのである。話が盛り上がっている中、私はギリギリまでその雰囲気を楽しみ、時間が危ういことを知って慌ててその居酒屋を後にしたのである。
「あの時慌てていたから、靴を履き間違えた、とか?」
なにより、この居酒屋が、家に着く前に靴を脱いだ最後の場所である。 普通に考えれば、この居酒屋の可能性が一番高いはずである。(なぜ最初に電話しない)
私は居酒屋に連絡してみた。
店員「火曜日、というと、昨日ですか?少々お待ち下さい、確認しますので」
「はい」
しばらく音楽が流れる。そして。
店員「ああ、あったようですね……はい。靴が違うって話があったようです」
「本当ですか!?すみません、本当にご迷惑を……」
ホっと安堵した。取り合えず、犯行現場はハッキリした。
店員「いえ、ですが……」
「あの、その方に連絡をお願いいただいてもよろしいでしょうか?それか、私の方で直接お詫びさせていただきたいのですが……」
店員「あの……それがですね」
「?」
店員「実は――」
「――え?」
店員「そうなんです――なので、電話ができないんですよ」
「あ、そうなんですか……それは……ええ、いや、こちらが悪いので……どうも」
私は電話を切る。そして、私はどうすべきか再び迷う。
確かに私は居酒屋で靴を履き間違えたようである。しかし、残念ながら、間違えてしまった相手とは接触できそうになかった。
靴を間違えられた当人は、間違えたことに気づきながらも、そのまま私の靴を履いて店を出て行ったようである。どうやらその方は、靴を間違えられたことに呆れながらも、笑って済ませたようだ。
……あ、いらぬ邪推をする人の為に念押ししておくが、入れ替わった靴を比較すると、たぶん、価格的には私の靴の方が安いはずである。色違いの靴の買ったので、大体の価格相場はわかるのである。
ともかく、私は袋小路に入ってしまった。そして、なす術がなくなり、力が抜けたのであった。
靴を間違えてしまった方、もしもこのブログを読んでいらっしゃいましたら……ご連絡の程を……。心よりお詫び申し上げます。
――
と、 ここまでは、実は先週の水曜日(5月31日)に書いたものである。
――
「……ダメだな」
私は左下にある『下書き保存する』をクリックし、この日記を公開することなく保存した。
公開をためらったのは、こういった日記を公開することに、自分自身のモラルを疑ったからである。靴を間違えておきながら、それをもとに日記を公開するなど、私の理性が許さなかった。それに、こんなちっぽけなブログで呼びかけたところで、おそらく持ち主に届く可能性は非常に低いだろう。
「とりあえず、今は保存だけ……」
と思い、今回のことは忘れることにした。
――しかし、ひょんなことから、このたび、上記の日記を公開することになる。
以下、続き。
――
6月7日。水曜日。
この日は、東京で会議だった。朝から新幹線に乗り、夕方過ぎに会議終了。
エレベーター内。
ノワゼット「お、やきいも。これから新幹線?」
会社の先輩であるノワゼット氏(仮名)に声をかけられる。ノワゼット先輩は私が新入社員のころに指導係だった男性。今は同じ部署で重要な仕事を任せられている中間管理職である。
「そうなんですよ。朝一で東京に来て、この時間から新幹線で帰ります。会議のためだけに来るのって、移動費がかなりもったいないですね」
ノワゼット「まあ、しょうがないんじゃない?――それにしても、お前、フルマラソンでたんだって?うわさで聞いたけど」
「一応、そうなんですよ(ホマレホマレ)」
ノワゼット「すっかりこげ茶色に焼けて。すごいなあ。俺じゃ無理だわ」
「いえ。暇を持て余しているだけですから――」
ノワゼット「あ、そういえば、こげ茶色で思い出したけどさあ――」
「?」
ノワゼット先輩は、苦笑している様子。
ノワゼット「おまえさ、1週間前に〇〇って店で飲んだの、覚えてるだろ?」
「え、ええ。もちろん(記憶から消したい店です)」
実はこのノワゼット先輩、先週の火曜日の夜の飲み会にいらっしゃっていた先輩の一人である。
ノワゼット「あの日、おまえ、俺たちより早く帰っただろ?大変だったんだよあの日。俺の靴がなくなってさあ」
「……え?」
私の全神経が耳に集中する。
ノワゼット「あの日、帰ろうと思ったら俺の靴がなくなっててさ、見知らぬ靴があるわけ。誰かが履き間違えてもっていったんだろうな。店員に聞いても全然ぴんと来ていないし」
「……」
ノワゼット「予約して入るような店でもなかったから、店員にきいたってわかるわけないし。みんなを待たせるわけにもいかないし、しょうがないから残っていた靴履いて帰ったよ。奥さんにも怒られるし。奥さんはその靴を履けって言うんだけどさ、でも、見知らぬ奴の靴なんて気持ち悪いだろ?だから、ほら、この前の日曜日に新しい靴も買ったわ」
笑いながら足を上げるノワゼット先輩。
「あ、あの」
ノワゼット「最近、『チーズはどこへ消えた?』がまた流行りだしてるみたいだな。大谷翔平効果らしいけどね。まあ、なんにしても、俺の場合はシューズはどこに消えた?って感じだよ、まったく(笑)」
「あの、ノワゼットさん」
ノワゼット「ん?」
「なくなった靴って、茶色ですか?」
ノワゼット「うん。こげ茶色」
「サイズは25.5あたり?」
ノワゼット「うん。ビジネスシューズは小さめにしてんの」
「もしかしてブランドって、〇〇?」
ノワゼット「……おい」
「あの、実は――」
ノワゼット「まさか、お前……」
「す、すみません。犯人は僕のようです」
ノワゼット「おおい!!なんだよ、靴買っちまったよ!」
「本当にすみません……!」
と心の底からお詫びを伝える。
ノワゼット「まあ、いいか、取引先と話すいいネタができたよ(笑)お前もネタにしていいよ(笑)」
「あ、ありがとうございます」
というわけで、何の因果か、あの靴の持ち主は無事に見つかったのであった。
それにしても、間違えた相手が身近な人で、しかも温和な先輩でよかったです。こういったときに笑って許してくれる先輩は、今後も尊敬させていただきます(ただ、その日から、いろんな先輩に「靴泥棒」と呼ばれましたが)。
まあ、せっかくなので、あの日の日記含め、靴について書いたのでした。当人から許可もらったからいいですよ……ね?